昭和43年1月7日 朝の御理解★(録音不良)
御理解第92節「神は一体じゃによって、此方の広前へ参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ」
これは、(常々?)見て、お取次ぎをさして頂く者に、下さった御理解のようでございますね。神は一体じゃによって、此方のお広前に参ったからおかげを受けられ、あそこでおかげを受けられなかったということはない。神様は一つだ、とこうおっしゃる。けれども、あの、守り守りの力によってひれいが違うのだ。守り守りの力によってひれいが違うと言うことになると、神様の現し方が違うということになる。ね。
というところ取次ぎをさして頂く者は、いよいよ力を受けなければならないな、ということを感じますね。そういうことの方へなってまいりますと、「神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしておってはならん、と。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ」と。
よくこれをその、結局、お取次ぎさして頂く者だけの御理解と、特に、私達の日常生活の上にもそれが言えると思う。同じ金光さんの場のお取次ぎをしてから、どうしてあそこは、どんどんおかげ頂かれるだろう。こちらはおかげを頂いておらない。同じ金光様を拝んでござるけん。というふうに、一つ考えてみたらよいのですね。
朝参りに(?)である。ね。御用も一つも頂きござらん。にもかかわらず、おかげを受けられる所もある。例えて言うならば、ここに、一つの、まあ歌なら歌が、ね、10人がもうよう歌う。そういうとこによって違う。歌も歌詞も曲も同じだけれども、( ? )美空ひばりのような、そういう天才的な人が歌うと、実に素晴らしい。
お道でも言えようかね、言うたもんがその、言うてその、( ? )ね。ですから、歌そのもの歌詞そのものは変わらなくても、歌い手によって違うてくる。同じ信心をさして頂いておっても、お互い銘々の心で、その、神のひれいを現す事もできりゃ、現す事のできない人もある。
そこんところをお互いが思うて、私どもの、まあ先輩と言うか。ほんとにお徳を受けられた。おかげを受けられたという方達の、信心を神習わさせて頂かなければならん。ね。そこんところをひとつ、皆さんが頂いて行かなければならんところですね。
同じ神様でも、神様は、神は一体じゃによって、一つだから変わらない。月一遍、(家業によると踊りか何かも、?)お月様そのものは同じなのです。煌々と照ってござる。ね。それを輪を書いて、盆踊りなら盆踊りを踊っておる。影がある。その影は、全部違うのである。
そこで、いかにお互いがね、工夫をしなければならないか、いかにお互いが熱心にならなければならないか、いかに御教えに忠実にならなければならないか、いかに修行しなければならないこかということが分かる。そして、この世に現した神様、同じ神様だけれども、それに、現した神様と、この世に現した神様は違う。内容が違う。
昨日、私、ある方のお取次ぎをさして頂いた。まあいうなら、意外と分かってるその、信心も分かってるし、信心も(巧者?)なのです。ところがその、私がお取次ぎをさして頂いてですね。あんたそんくらいの事もまだ分かっとらんのか、と。ね。そういう事ではおかげは受けられんよと、まあ、言いたいような感じ。
けれども私は、そういうような気持ちでお取次ぎしても、おかげにならん、と私は思うた。ね。( ? )あなた達願いを聞きよりなさるのだから、あんた、そげな事ではおかげにならん。そういう事もまだ分からんのか、と言うておったんでは、ほんとのおかげは受けられない。今、私の心の状態がおかげというような。ね。
そこで私としては、私取次ぎをさして頂く者としては、このくらいの事も、もう長年の信者さんに対して、分からせとらんということを、私思う。まあそこを、まずはお詫びさして頂いた。そしたら、★先日、何かの絵で見ましたがね。ああそうか、(いでみつこうさん?)のカレンダーで見ました。(猿がこう、木にいっぱいおるわけですね。?)
下の方に、下の方カニで、カニが這っておるわけです。そのカニを捕ろうとしとるわけです。こう枝に掴まってですね。ところがどんなに長くしてもですね、もうそれからちと、もうそこにカニはあっても、これでは捕られない。と言うて上の方離しゃ、自分が落ちんなさる。そういうところを頂くんですね。
結局、勢いっぱいの、まあ、その人の信心というのじゃなかろうけれども、そういう時に足してやるのが取次ぎ者である。ね。別に、自分が分かりきっとらん事をお詫びさして頂くと同時に、この人の、まだおかげを受けきってないところをです、足してやる。一品足らんなら一品、二品足らんなら二品足してやる。ね。それが取次ぎの役目だ。いつもこう頂いて。
なるほど、そういうふうな心にならなければ、助からんなとこう思った。そこで、まあ取次ぎを願う者。それを頂いておる私は、ほんとに御教えをね。こういう場合、こういう時、ね、どうある事が本当か。ね。有り難く頂いて帰れれば、舟にも車にも積めぬほどの神徳があるとおっしゃるのに、それを有り難く頂いて帰っていない。
こういう場合は、こういう姿勢、こういう願い方があるのに、そういう、私は、反省がなされると同時に、それを取次ぐ者もまた、ね、そこんところが、欠けておるところは、欠けておるところはお詫びをしてやる。また、足りないところは足してやる。そして、おかげを受けて行く。この両方がですね、できて行かなければ、今日私もうしました、神のひれいが違うのぞ。金光じゃおかげが受けられたけれども、ここではおかげが受けられんということはない。ね。
あそこでおかげが受けられる。ここでは受けれん、受けられるというのは、守り守りの力によって違うのだ。ですから、その守り守りが、もっと言うなら「神様のお守りをしておる者」ということでしょう。ね。が、私は、力を受けなければならない。ね。ところが、これでは、私は、本当のおかげになっていかない。
これはまあ、一番、私どもが、それには、久留米の石橋先生ですね。たいへんな大徳を受けられた。それこそ、守り守りの力によって、気負いが違うと言うのが本当に感じられます。ね。もうそらたいへんなごひれいでした。
それを先生、亡くなられた後はどうなりますか。その時分におかげを受けておったと言う人達がです。ね。もう、ほんとに影もないようになってしもうた。御本部に、一つの教会から千人参りができるような、ごひれいを頂かれたのですけれども、だんだん、影が薄うなって行っておるという事実があるでしょう。そういう教会はたくさんある。ね。
ですから、いかにも自分の力と言うてもです、私、ここんところがです、なるほど、足してもあげよう、詫びてもあげよう取次ぎの者が。けれども、ここんところに取次ぎを願う者もです。私は、日頃頂いておる教えを、ほんとに、自分の物に有り難く頂き、有り難く聞いて帰るものじゃない。有り難く頂いて帰るのだ、と。「舟にも車にも積めぬほどの神徳がある」とおっしゃる、その神徳を受けて帰るである。そして、それがいつでもどこででも、力いっぱい御教えが、御教えが現して行けれる信心。ね。
一つの歌にそれを現さして頂くでも、「ああ、こういうお取次の頂き方でいいんだろうか」その、願う事が同じでありましても、これは、ほんとに、例えばなら、私が昨日感じたようにですね。例えばんなら、同じ願いであろうから、先に詫びを持って来たらどうだろうか。こういう事もできとらん私。
最近、不信心になっておりますから、ここんとこの受け方頂き方が、おろそかになっておる。ね。そして、私は、願う事をしておられる。ただ願う事を、あの願いを(?)すると私は、直感することは、まあだ、そんな事分かっとらんの、とこう感じるのが一番なんです。けれども、よくよく考えてみると、ああこげな事じゃ、私の取次ぎ者としての値打ちもない。そげな事では、この人はおかげを受けられんことになる、というふうに、私は、徳をもし受けとるとしましても、まあ、そんならば、じゃあ私が足してやったり、詫びてやったりしておかげを渡すにいたしましても、ね、それはおかげにならん。
いや、おかげになったらです、それこそ今、いろいろ申しましたようにです。ね。力を持っておる、守り守りの力がある時には、神のひれいが輝いておる時には、おかげが受けられても、さあ、その守り守りの力と言われるその力がなくなった時には、もう自分も一緒になってしまう。そして、信心までが、影が薄うなってしもうておる、といったようなことでは皆さん、バカらしいでしょう。私もそれでは、相済まんと神様に思うた。ね。
それで皆さんが、力を受けなければならんというのが、分かってあるようで分かっとらん。スッキリしない方がおったら、その、ね、それによく似た事があった。福岡の高橋さんが、朝の御祈念の時に参ってみえて、前の日に、久保山先生所の一年祭に、カゼをひいて、休んでおりますから、ご無礼いたしますと言うお電話であった。そしたら、こちら参ってみえた。
ようやく起き上がった。ところがまた、次に( ? )ね。正月と言や、お寿司屋さんなんかを駆け巡るのである。にもかかわらず、職人さん達が寝ておる。子供さん達がカゼひいて休んでおる。家内も頭痛い痛いと言うながら、(やっとかっとにする今日は?)と言うような状態。私もカゼをひいておった。こういうわけなんです。ね。
( ? )一番始めここで言われる事が、「先生、これはどういうようなことでしょうか」と。「金光大神は『無常の風は時を嫌わんと言うが、金光大神の道は無常の風に時を嫌わすぞ』とおっしゃる。のにもかかわらずです、私の方がこのように、正月に忙しいという時に、どうしたならば、このカゼをひかなければならんのですか」ということであった。
あの人はもう、向こう向いてから、こっちも言わなかった。こうやって、( ? )向こう向いてからこちら、もう返事もしなかった。まだ取次ぎ中でもあった。で最後には、そうは言いながらもです、と言うよりも少しは、(?)ましのようでございました。とにかく(ふろなしじゃ先言わんか?)ちこう言うふうに座っておられた。ね。
だから、こういう時に、「ただ今氏子は、このような事を申しております。私が考えでは、これは間違っておるように思うんですけれども、そこはどうぞ神様、お許しを頂いて、信者のカゼも早く治してください。商売の方も、繁盛のおかげ頂かしてください」もし、これだけであったらどうなるだろうか。
なるほど、( ? )の中に、まあ、黙っておかないかんから、私が申しました。私は今日、始めて分かった。もう始めってって言うか、うすうす感じんわけではなかった。あんたが、これだけ頂いた信心を、もう、人も真似できん、これだけの御用もできれ、ね、にも関わらずに、それに対するおかげは、どうも、頂けん頂けんと思いよったら。なるほど、そういうあんたの根性じゃから、おかげが受けられんとばい、と私は申しました。
「どういう事でしょうか」(どういう事違うなもんか?)一番始めに、その出た言葉が、金光大神は、もう教えを盾にとって来る。金光大神は、無常の(?)無常の風は時を嫌わんと言うけれども、金光大神の道は、無常の風に時を嫌わすぞ、とおっしゃる。ね。
同じ風が吹かなければならない運命であってもです、わざわざ、正月の忙しい時に、カゼをひかせずに、暇、店が少し暇になった時にでも、( ? )無常の風に時を嫌わすほどの力を持ってござる金光様が、どうしてならば、私の一番忙しい時に、カゼをひかなければならんですか、とこうおっしゃった。
あのね、どういうふうに信心が分かったとしても、こういうような、心に恨みつらみが( ? )事が、あの、感じられておる時におかげが受けられない。神様に対して。もう神様に対して、恨みつらみ(?)神様に対して不足に思うて。なるほど、金光大神は、無常の風に時を嫌わすほどの、もうひどい重病人でも助けて下さるほどの、おかげを、力を持ってござるんだけれども、私は申しました。
昨日ね、私、久保山先生所に寄らせて頂いたら、もう朝から、(昨日の挨拶にもならん?)ほんとに苦しかった。いよいよあそこで、神様へあるいは( ? )申し上げる時には、もうこういよいよ、この、平伏もできないような状態であった。
果たして神様に(どうだろうか、?)神様あなたもあなたなら、今日はあなた、久保山先生所の一年祭ってことは分かっとるなさるでしょうもん。それに私は、あなたお水一杯頂かれんとですよ。(?)
その後御祈念も、あなた、私んごたる事で(どうですか?)( ? )しかたがなか、あなたは。けれどももう、私どもはですね。もうどんなにガーンと目の前が真っ暗になるほど頭を叩かれてもですね、( ? )て言うのが一番ですよ。私は。これはもう、今になった事じゃない、昔から。ね。
そこで、そこで自分というものを本気で見極めて行け。ね。久保山先生の霊祭の時に、一番始めに頂いたのが、「心は信心の定規じゃによって」ということであったが、いつも、教えと言うものを自分の心の定規として、ほんとに定規を置いた時に、こんなにも違うておる。こんなにも間違っておる。ということをいつも感じんなら、もう相済まん相済まんと言う以外にない。神様に叩かれるのは当たり前だ、と。ね。
ですから、叩かれた時に、「ああ痛いよ」と言う前に、「すいません」ということになる。( ? )十分、高橋さん分かったわけですから、こうおかげ頂いたんですね。けれども、何とはなしに、そういう雰囲気をあなたの(場にと持っておる。?)ね。ここんところのスッキリする信心。こういう時に心の中がスッキリするような、私は、おかげをです、あなたが頂かなければならん。もうそこんところに、今後の焦点を置かなきゃいけませんよ。と言うて、まあお話した事でございますが。ね。
そういう時にはです、やはりそれを修正しておられるんですね、私達は。どんどんそん時の、今度また、受け方なんです。一生懸命( ? )まあちょっと、(カニを私ば、私に?)しておかげにはならん。私は、私は、(ああ言った?)皆さんひとつ、高橋さんの真似をしてはならんと思いますね。(?)に帰らんならん。ほしてもう、あっちよろよろ、こっちよろして、あそこ立つまで、いわば帰りきりなさらんという感じですね。
だからもう、本当に、お叱りを頂いた、と。お叱りを頂いた時ほどですね、私はあの、神様へまた近付く気持ちが必要だと思う。
ちょうど、私は櫛原に、身内の関係でございますから、(途中約2秒、録音切れ)
まあ何時間てある。そのまたその、時間まで、なんかうろうろしながら待っておられたんですよね。そして、結局、私は行けなかったから、(秋永先生が行った。?)ね。
それで、はあ、高橋さんが今日の、あの、(とんちく言われたことを?)本気で受けてくれた、分かってくれたんだな、とこう私も思うんです。ね。高橋さんがまたそれを、こう受けておられる。(と言うのはね、?)私はちっと、その、やはり聞いてもらいたいとこはそこなんです。
守り守りの力、守り守りの力とよって神ひれいが違う事は、間違いないのだけれども。それだけに依存しておったんでは、何にもならんということ。ほんとのおかげは受けきれん。そこで、お取次ぎを願う者の信心、お取次ぎをさして頂く者の信心がです、ね、足してやったり詫びてやったり、または、取次ぎを願う者のです、日頃の教えをそういう時に、生かしてです。ね。いよいよ身に付け、そしておかげを受けて行こうとする、私は、姿勢が必要になってくると思うのです。ね。
寒修行2日目に入りました。ね。昨日よりも、今日はまた、(寒かろうと思います。?)ね。私は、合楽の信心はこれでなからなきゃ嘘だと思うんです。ね。
最近、お取次ぎの働きということを言われます。ね。お取次ぎを頂いての事だったらです。これがだんだんだんだん、整って行かなければ嘘なんです。ね。1月間の寒修行が、だんだんだんだん(細々になって、?)しまいには、元の木阿弥になってしもうたということじゃいかん。
寒修行の間に、(1回じゃなからん。?)寒修行があってるなら、私もお参りさしてもらおう、というような勢いが出て来なければ嘘。ね。
夕べ、企画の方達が集いまして、私は、もう11時過ぎに、ご無礼して休んどった。皆さん、(おそらく遅くなったと思いますが。?)その中に、企画の中に、今度、青年会の方達が御本部参拝をして、( ? )の関わり合いができて、ね、とにかく、いつでも合楽にお話に行きたい。いつでも言うて下さい。いつでも行くから、といったような、まあ企画とかできてきた。
ところが、それを企画の方達にに、その、見当してもらって、それはもうえらい、(真剣な?)だから、「先生、ただ今こういうような事になっとる」と言うてから、話があったんですけれども。夕べ。ね。
だから、合楽全体、各、各部でですね、いくら信心実習会といったようなことを、せっかく、ああいう素晴らしい信心の人達もいるんですから、ただ話を聞いただけではなくて、その人を囲んで座談会をしたり、または、青年層なら青年層。ね。婦人層なら婦人層の方達が、銘々の立場で信心を見当し合って、そして、(?)ゆっくり、まあ2日間に渡って、そういう企画を立てておるがどうだろうか、というような事であった。そら結構です。(ここでしかできん。?)
例えばんなら、この、(生活の御本部参拝が?)そういうふうに浸透してくる。だんだんだんだん。「そしたら、20日と21日の2日間にしましょう」というようなところまで、だいたい、決定しておったところまで、私、聞かせてもらったんですけれども。ね。
もうほんとに、思いがけない事が思いがけない方向へ、だんだん、こう、広まって行くというのが、私は、お道の信心。それがお道の信心のひれいだ、とこう思うのです。ね。ですからその皆さんも、そのひれいに便乗して、ね、おかげを頂いて行くひれいに便乗して、信心を頂いて行かなければならない。舟に便乗して力を受けて行かなければならないということなんです。どうぞ。
明渡 孝